挫折を越えて食育の起業家へ|omochi 創業者の半生|創業者図鑑

執筆者 : すずき すい

============= ▼ルーツを辿る▼ =============

 

①#誕生 #幼少期

1997年、北海道・札幌市で生まれる。

両親も北海道出身で、純粋な道産子の家庭に育つ。幼少期は郷ひろみの真似をしていたそうな。ふっくらと元気いっぱいの子どもであった。

②#幼少期

彼はウルトラマンティガ、ポケモンの指人形、トミカに夢中だった。漫画を描いたり、難易度の高い折り紙に挑戦したり、ティッシュを丸めてオリジナルの怪獣を作るなど、創造的な遊びも大好きだった。コマ回し大会に感化され、コマにも熱中。単に回すだけでなく、紐の上を走らせるテクニックまで磨く。

友達は少なかったが、孤独な中でも楽しみを見つけ、様々な遊びに没頭していた。

③#小学生

父親は化学製品を扱う会社の営業マンで、その仕事の都合で彼が3歳の時に一家は大阪府茨木市に引っ越した。

茨木市は大阪府北部に位置し、交通の便が良く、大阪市や京都市へのアクセスも容易な便利な都市である。

④#小学生

彼は夏になるとバッタやザリガニを捕まえに出かけるアクティブな少年だった。

同じマンションに住む子たちを取りまとめて、日々の遊びに精を出していた。また字を書くことに自信があり、漢字練習帳も真面目にこなしていた。小学校二年生の時には、「ドイー・ポッター」という演劇で主役に抜擢され、初めての晴れ舞台を経験した。

⑤#中学生

小学4年生の時、父親の仕事で千葉市に転校することになった。特に悲しさは感じず、新しい環境で友達もすぐにできた。

ミニバスケットのクラブに入るが、やんちゃなメンバーに気が乗らないことも。足は速かったが、シュートや背の高さに自信がなく悶々とした日々を送る。

また親しい友達の影響で、多くの新しい体験をすることができた。

⑥#中学生

地元の中学校に進学し、小学校のミニバスのやんちゃな仲間たちと再会。

彼らが本格的に荒れる中、被害を受けないよう注意しながら過ごした。授業のボイコットや教師への暴力など、クラスは荒れ放題だった。

外部の友達とのバスケが唯一の楽しみだったという。中学後半には塾にも通い、勉強に励む日々を送った。

⑦#高校生

第一志望だった幕張総合高校に進学。20クラスもあるマンモス校。

バスケの強豪校で監督の厳しさと練習の過酷さを見学し、入部を断念。バドミントン部への入部を決意。

初めてのスマホでパズルゲームに夢中になる。特進クラスで勉学に励むが、高校二年で宮城県仙台市に転校。密かに好意を寄せていた女の子との別れに心を痛め、第一志望の高校を去る悲しさを味わった。

⑧#高校生

高校の編入試験に失敗するも、再挑戦し無事編入。新しい高校は制服もなく、髪染めやピアスも自由な校風で、部活もなく全てサークル活動だった。

驚くほどの自由さに最初は衝撃を受けるも、すぐに受け入れられ人気者に。勉学でも成績上位を維持し充実した日々を過ごし、バスケを趣味程度に続けた。

順調な生活の中で自分を過信し、天狗になることもあった。

⑨#高校生

絶好調の高校生活に溺れ、自分の力を過信して授業を受けず図書館で独学に励む。

しかし、その結果、志望していた大学に不合格という人生初の挫折を経験。

受かった大学もあったが、第一志望に落ちた悔しさから親に頼み込み、浪人を決意。勉強をゲーム感覚で楽しみながら、365日河合塾に通い受験勉強に明け暮れた。

⑩#大学生

実家を離れ経営に興味を持って神戸大学経営学部に進学。

大学一年の夏にプチ留学で訪れたマレーシアで食文化をリサーチし、この経験が後の起業に影響を与える。

⑪#大学生

大学二年時、友人の誘いで学内のビジネスコンテストに参加。フードロスをテーマに取り組み、起業家精神が芽生えるが敗北。悔しさから一人、挑戦を続ける。その後、京都の社会起業家支援プログラムに参加。

英語研究会というサークルに入り、得意な英語をさらに磨くためディベートに挑戦。これにより英語力と論理的思考力が大幅に向上。一方、経営学部の授業にはあまり興味を持てず。

⑫#大学生

支援プログラムを経て大学を休学。ニトリの内定を辞退し、自分の活動に専念する決意を固める。

食の知識を深めるため、フードロス解決を掲げた八百屋でインターンを経験。個人事業主として食育イベントを子ども食堂で始め、徐々に集客や人脈を広げる。神戸市と連携し、規模の大きなイベントを企画。法人格が必要な大きな仕事を請けることになり、会社を設立する。

 


 

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すずき すい

創業者オタク / FOUNDER’s FANPAGE 主筆 / 株式会社モクジヤ 代表取締役

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