============= ▼ルーツを辿る▼ =============
1986年、山岡さんは四国の愛媛県今治市で2人姉弟の末っ子として誕生しました。
今治市は美しい瀬戸内海に面し、タオル産業の中心地として知られています。当時、日本はバブル経済の始まりで、経済成長と消費文化が急速に進展していました。企業の成長とともに生活水準も向上し、豊かな暮らしを享受する人々が増えていた時代でした。
山岡さんは、両親の愛情に包まれ、何不自由ない幼少期を過ごしました。
家族を常に笑顔にする明るい性格で、ひょうきんな一面も持ち合わせていました。
小学校時代は、野球やゲームに夢中になり、友達と共に活発で楽しい日々を過ごしました。
中学校でバスケ部に入部し、初めての彼女ができたことで、山岡さんの青春が色づき始めました。
特に努力することもなく、勉強は常に好成績で、スポーツも何でもこなせる万能タイプでした。
周囲に偉ぶることはなく、親に喜んでもらえることが嬉しかったと言います。
中学卒業後、山岡さんは愛媛県今治市で進学校だった今治西高校に進学しました。
入学5日で女子との交際が始まるもすぐに振られ、学年中の女子全員から嫌われるという波乱の高校生活がスタートします。
思春期とともに明るさを失い、根暗で無口な性格に変わり、学業面でも成績が急降下。
人間関係や学業の優れないそんな辛い時期も、良き先輩と友達のおかげで乗り切ることができたそうです。
高校二年で成り行きから生徒会長となり、激務の中、毎週1000人の前で話す全校集会を経験しました。
この試練を通じて、人前で話すことや人を動かすことに興味を持ち、学びました。
高校卒業後、山岡さんは早稲田大学文学部に進学。
大学生活は”楽しさ”と”堕落”に満ちた4年間で、学業にはあまり興味を持てず、単位取得のために授業に出席しながらも眠ってしまう日々を送ります。
しかし、マスメディア系のサークル「放送研究会」では積極的に活動し、期間代表も務めるなど、多くの経験を積み、現在に繋がる友人関係を築きました。
就職活動を終え、東京での社会生活が見えてきた山岡さんに、長い苦悩の1年が訪れます。家族を大切にしたい思いと、自分の願望の間で「地元に戻る」か「東京に残る」かで悩むことに。
卒業までの間、愛媛での就活を始めると内定が続きましたが、未知の世界への憧れなどから、愛媛での就職を決断できず、深く落ち込みます。
就職に関して悩み苦しむ姿を見かねた親が最終的には背中を押し、自分の道を進むことを決めました。
このとき、彼は「30歳までに起業する」と決意し、就職したと言います。
山岡さんはIT業界で営業やコンサルを2、3年ごとに転々とし、独立に必要なスキルを蓄えました。
多くの起業家や経営者の話を聞き、動かないと何も分からないことを痛感します。
30歳を迎え、会社を辞めてフリーランスとなり、起業のタネを探し始めました。
起業のタネを探す中で地元の同期や同僚たちの愚痴に満ちた現状に違和感を覚えた山岡さんは、好きなことを仕事にする重要性を再認識しました。
そして、地方での起業の可能性を広げるために、環境整備に従事する起業をしようと決意します。
山岡さんは実績作りのため地元に戻り、地域に根付いたプロジェクトをいくつか立ち上げました。
これにより、地方でのプロジェクトも成功に導けることを実感し、ノウハウを体得。満を持してアドリブワークスを創業しました。